今回私達が訪問した徳田畳襖店は福岡県朝倉市甘木(あまぎ)にある。この地はなんと「卑弥呼の里」と呼ばれ、かの「邪馬台国」があったとの説があるのを着いてから知った。早速甘木駅の前の碑をパチリ。
(聞き手: 安倍宏行 ジャーナリスト ”Japan In-depth”編集長)
その足で4代目徳田直弘さんが待つ事務所兼工場を訪問、中に入ったとたんに、い草のなんとも言えない良い香りが。最近は、フローリングの部屋も増えて町の畳屋さんを見ることもめっきり減ったが、なんとも言えない郷愁を感じる。やはり畳は日本の文化だと実感。しかし、徳田さんの話を聞いた後でさらにその思いが強くなった。
>音楽への想い
徳田さんが家業を継がれたのは、22歳の時。最初から継ごうと思ったわけではないという。高校を卒業して半導体の会社に入った徳田さん。でも音楽をどうしてもやりたかったので会社を離れ、派遣でお金を貯め、音楽学校に入った。実はそれが家業を継ぐきっかけになったのだ。
「講師の先生が『歌う畳屋になって畳業界を盛り上げる人になったら?』と助言してくれたんです。それから畳の歌を作って、ライブで歌ったら観客が沸いて、畳の歌でも『人のため、世のために』なるなと実感したので、畳屋になって業界を盛り上げようと思って(継ぐことを)決断しましたね。」
音楽学校の先生の一言がその後の人生を決めるとは、人生は分からないものだ。でも「歌う畳屋」になる!なんて言われたらお父さんはどう反応したのだろう。
「もちろん、驚いていました。(笑)全国各地見わたしてもそういう人、いないので。ですがコツコツやっていけば、認めてもらえるなと思って、今では父から結構アドバイスとか貰っています。」
周囲の友人たちからもやめた方がいい、と言われたという徳田さん。かえって発奮した?
「やってやるぞ、というのもありましたし、言っている友人たちが人前に立って歌を歌うとか、なにか演じるとか、やったことのないのに反対意見を言うのが納得いかなかったので。やってみないとわからない、と伝えたら『わかった』と言ってくれました。それから自分で実績を作って徐々に認めてもらっていった感じですね。」
どうしてどうしてガッツがあるのだ。
チャレンジング・スピリット
「楽しいです!自分は音楽活動をしている頃から、ずっとメディアに出て有名になりたい!と思っていました。当時は、メディア関係者を知らなかったんですが、コツコツやってきて、やっとここ数年でメディアに取り上げてもらえるようになり、続けて良かったなと思っています。」
でもどうやって知名度を上げていったのだろう。話を聞いて徳田さんのチャレンジング・スピリットに納得した。とにかく知ってもらわなくちゃ、とメディア関係のイベントに潜り込んだ徳田さん。畳の小物を身につけ見せびらかしたそうだ。するとみんな寄ってきて、『お兄ちゃん面白いねぇ!』となる。そこで「自分畳屋なんです!」と初めて自己紹介。さらに畳バッグから畳ランドセルとか、畳財布とか、畳名刺入れとか、ドラえもんのポケットのように次々と出していく。当然みんな「何々??」となる。そうなればこっちのもの、こうして本物の”面白い人”になっていったそう。いやいや、なかなか出来そうで出来ないことだ。
こうしてメディア関係の方の紹介で、出演する機会が増えていき、音楽活動と家業との相乗効果が出始めた。
「メディアにここ2、3年出させてもらっていますが『あのラッパーがいる畳屋に頼みたい!』という人が増えてきました。今注文は2、3週間待ちです。メディア効果は明らかにあります。親も畳屋ラッパーのおかげで、売り上げが上がっていると言ってます。」
表の車を見ると、荷台の幌には徳田さんの似顔絵が。お父さんも徳田さんの活躍を嬉しく思っているのだろう。そんな徳田さんに「家業を継ぐ」ということについてどう考えているのか聞いてみた。
「家業を継ぐことは、夢を諦めることでは無いですね。前回のイベント『家業イノベーションCafé in 福岡』で、他の家業を継いでいる人の話を聞いて、家業があるのに自分で会社をたてて別の事業をやっても、それが家業を継ぐことに繋がるという話をなさっていた方がいましたが、自分には無い発想だったので面白いなあ、と思いました。自分でも違う事業をしたり、新しいことをやったり柔軟にやっていこうと思います。」
国内で畳の需要は年々減っている。そうした状況で徳田さんの描くビジネスの今後の在り方はどのようなものなのだろうか?キーワードは「海外」だと、徳田さんは言う。それは単に畳を海外に紹介する、ということだけではなさそうだ。
新規事業について
海外進出ということなら、ミラノサローネ(注1)やジャパンエキスポ(注2)などに出展するのも手ではないだろうか?そんな問いかけをしてみた。
「それは良いですね!畳というものを知っている国もあるので、面白いことを仕掛けていきたいです。6月にパリに行くので、畳グッズを持っていって反応をみたいなと。」
「海外では、畳の上でご飯を食べる文化は無いので、もう一つやりたいと思っているのは飲食店なんです。」
なんと、次は飲食店!やはりチャレンジャーだ。最近、徳田さんが気になっているのが、漆器屋の山田平安堂さんが展開している六本木のバー、「He & Bar」(Heiando Bar)。そこは外装も内装もカウンターも漆塗で、和室にはLEDが組み込まれた光る畳が敷かれている不思議な空間。徳田さんはそこでインスピレーションを得たようだ。これからどのようなアイデアを形にするのだろう。
写真)「He &Bar」(Heiando Bar)光る畳の部屋
出典)山田平安堂
音楽活動の今後
畳屋との相乗効果が出ている音楽活動。徳田さんは、今後も徳田畳襖店の強みにしていきたいときっぱり。目指すは、紅白、Mステだ。 「畳業界の革命児として、いろんな人が憧れる人(存在)になりたいです。」
ニューヨークのアポロシアターにだって行く気満々の徳田さん。本当に実現してしまいそうだ。最後にこれから家業を継ぐ人へのアドバイスを聞いた。
「継ぐ」人への一言
「家業を継ぐという最初の大きな一歩には『大きな勇気』が必要だと思います。でもそれを乗り越えたら面白い事が見つかったり、新しい夢が見つかったりすると思います。全国に家業を継いだ人のコミュニティーがあるので、悩んだらそういう人たちに相談したりして、新しい夢を見つけて頑張ってほしいです。」
「継ぐ」ことは「大きな一歩」であることは間違いない。「最初の一歩」を踏み出す勇気さえあれば、面白い人生が待っている。徳田さんのそんな言葉に私たちは大きくうなずいた。ラッパーの活動について話している時の徳田さんの目は間違いなくきらきらしていた。でも同時に工場でい草の魅力、畳の素晴らしさについて語る時もとても生き生きとしていた。
一人前の畳職人になるためには最低10年かかるという。国家試験もある厳しい資格も取らねばならない。日本古来の伝統的な産業なのだ。徳田さんは、「まだまだ修行中、これからです」と謙遜しつつ、「最近何を見ても畳に見えるんですよ」と笑った。
自分の縫った畳の前で、将来のビジネスの夢を語る徳田さんの姿をお父さんが頼もしそうに見ていらした。いつか彼のラップを生で聞きに行きたい。その時は、”ござ”を敷いた屋外会場がいいな。そんなことを考えた。
注1)ミラノサローネ
毎年イタリア・ミラノで開催される、世界最大規模の家具見本市。 家具やキッチン・オフィス等のインテリアデザインにおける世界最大規模の国際見本市と、ミラノ市街各所で行われるメーカーやデザイナーの展示会や展覧会等をあわせてミラノサローネ( MILANO ISALOINI)と呼んでいる
注2)ジャパンエキスポ
JTS Group主催により2000年からフランス・パリやマルセイユ、アメリカ・サンマテオ等で開催している日本文化の総合博覧会